はじめまして。石原ゆり奈です。
長年、国際協力の活動をしてきて
福祉作業所をラオスで初めてもうすぐ7年になろうとしています。最初に教育支援に携わり始めてから15年以上・・・?
国際協力に興味がある人、ラオスに興味がある人、映画に興味がある人から「なぜこの活動を?」と聞かれることも多いので改めて活動をご紹介

どの国に生まれても学校にいく権利はある

中高生の時に学校のボランティア活動に参加していて、日本ってなんでこうなんだろう?と考えたのが探究心の発進だったかもしれません。

大学で社会学を専攻。真面目な生徒ではなかったけれど(今みたいに出席も厳しくなかった)大学生活はとっても楽しかった!

学内のボランティアサークルには所属せず、私の探究の旅はもっぱら学外。
炊き出しから、フリマの手伝いから、高齢者施設まで色々行ったなーと今思うと無謀すぎて笑ってしまうし、対応してくださった大人の皆さんに心から感謝です。
ただでさえ忙しいのに、たいして使えない大学生ボランティアの対応をしてもらっていたかと思うと只々申し訳ないですね・・・



さて、そこで出会ったのがネパールでの教育支援。
当時はまだまだ学校や制服などが足りていない状況でした。登山ルートのエリアなど場所によっては充足しているものの、観光地以外は人が来ないので校舎が壊れて青空教室。なんてこともありました。

若手の活動者が足りていないということで、お手伝いに行ったのが国際協力の入り口でした。
教育支援についてはこちらに書きました↓↓

お手伝いからスタートしたものの、継続性を持たせようと自分で団体を作りNPO化しました。

学校を作っても通学できていない 障がい児の存在

その後、AEFAさんにお世話になりながらラオスでも初期活動をスタートし、こつこつ学校作り。定期的に現地に通いながらニーズ調査&プロジェクトを進める日々でした。
子ども達は可愛いし、ネパールの雑多とした面白さもラオスの緩やかで優しい空気も、心地よかった。

開校式をすると100人以上の子ども達が集まりますが
ふと、この100人の中に障がい児 10名いるかな?と。
どの国でも約1割ほどは障がいのある人がいる、と言われているからです。

その場には1人も障がい児がいませんでした。
障がい児校は首都圏にはありますが、田舎にはほとんどありません。
地元の学校に通う子どももいるはずなのに、見当たりません。

先生や村長さんに聞くと、村の中にはいます、という返事です。
ここに来ることができていない障がい児は誰と関わり、どう大人になっていくんだろう?と考えるようになりました。

障がい児の通学についてはこちらに書きました↓↓

ラオスの福祉、どうする?

何ができるだろう?を一緒に考えようと、首都ビエンチャンで障がい作業所・施設・当事者を訪ねてまわり、話し合いを重ねました。
すでに運営されている施設の屋根の修理支援をしたり、個別に生活支援を行ったり。
そんな活動の中で出会った女性が、現在の障がい作業所リーダーになります。

当事者の希望は「自立した暮らしがしたい」。
それを叶える第一歩として
2017年 小さく障がい作業所をオープン。

福祉作業所についてはこちらに記事を書きました↓↓

福祉支援のためのNPOを日本で立ち上げました。

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コロナ禍 スタートした「ラオス展」

2017年から職業訓練を重ね、作ることができる製品も増えてきました。
コースターやポーチなどの雑貨にはじまり、靴、洋服、バッグ など。
このスピードで質のよい製品作りを重ねていけば、
ラオスの材料で作るラオスのお土産品として市内や空港で販売ができる!
障がい当事者が自立する日も近いかも・・・と思っていた矢先、2020年コロナ禍突入。

私たちも、海外からの観光客の方達もラオスに入国できなくなり・・・

このまま流通が止まってしまったら、ものづくりがストップしてしまう。
障がい当事者の仕事も村で生地を織ってくれる女性たちの仕事もなんとか維持しなくては・・・と思い始めた取り組みが「ラオス展」です。

売れた分だけ次のオーダーに繋げることができる
ラオスの障がい者雇用と民族女性たちの手仕事を支えながら
日本のみなさんに「ラオスの文化」を知ってもらう展示販売。

2024年1月現在 19都道府県 25都市で開催。
2023年はフランス パリでも開催しました。

自立のための支援であることを忘れない


私たちはいつか現場から卒業し、ラオスの当事者だけで障がい作業所を運営する時が来ます。
未だ福祉の仕組みがないラオスですが、将来的に法律が整備されるでしょう。その時に、障がい当事者が蚊帳の外にならないように、今の現場で当事者リーダーを育てていくことはとても大事だと思います。
様々な経験をすること、人の前に立つこと、国外の人と交流すること、各国の福祉を学ぶこと。
その1つ1つが彼らの糧になります。

私たちはあくまでも脇役で、主役はラオスの人々。

支援側が現場に居座ってしまうと「支援慣れ」してしまい、自分で考えること、自分で動かしていくことを見失いがち。

少し寂しいけれど、撤退できる時が活動としてはゴールです。

国内での活動

活動を掛け合わせる

ラオスの福祉支援が中心ですが、ラオスと日本の福祉事業所でできることを持ち寄った製品作りにもチャレンジしています。

手まりアクセサリー
ラオスの障がい作業所で刺繍、金具付や箱詰めを日本の障がい作業所で担当。地域のお土産品として流通

ハーブティー
ラオスの有機栽培地で足に障がいのあるメンバーが栽培・収穫を担当
日本の作業所がティーパックにし袋詰め、地域のお土産品として流通

双方ができることを持ち寄ることで互いの理解が深まり、支える側も、支えられる側も経験できます。

静岡の御殿場市にあるB型事業所との取り組みを起点に各地域の福祉事業所とコラボを進めています。

映画を作るということ

2019年からご縁があり、ドキュメンタリー映画づくりに関わっています。
活動者が講演会などでお話しするのも1つの方法ですが、映像化することでより広がりが大きく、課題を知ってもらう機会になるんだなという気づきに。

タイミングも重要だと思っていて、若い頃だったら伴走できなかったかもしれません。

現場で経験を積み
苦しいことも、悲しいことも、うまくいかなさも
抱きしめて前に進むしかなかったから

長い時間をかけて自分を形作ってきた様々な感情が器となって
「映像にして伝える」につながったと思います。

長崎の被爆者の方達にインタビューした
「a hope of Nagasaki 優しい人たち」

社会的養護の現場で親と暮らせない子ども、保護されない子ども、子どもたちを支える大人たちに密着した
「旅のはじまり」
これはどうしても撮りたかったテーマ。

国際協力は草の根の外交。 知らない を 知っている に。

なぜ国際協力ですか?
日本にも困っている人はいるのに。

これまで何度も問われてきた質問です。

日本が戦争に負けた時、もちろん日本の人たちも頑張って頑張って復興しました。
一方で足りない食糧を、戦災孤児のサポートを 国際協力でサポートしてもらったことも事実です。
今は日本がサポートできる順番が来ているのかなと思います。
将来的に、日本が助けてもらうこともあるでしょう。
3.11の時もたくさんの国が救助隊を派遣してくれたり、義援金を集めてくれましたね。
困った時はおたがいさま。

ラオス という国を 「知っている!」と自信を持って言える人は多くないかもしれません。
顔が見える誰かと知り合いになったら、支援を通じてラオスのことを知ったら
「知らない」が「知っている」になり
「知っている」が「もっと知りたい」になり
お互いに心配し思いやりを持てるようになると思います。

国同士の大きな支援も大事ですが
顔が見える民間で繋がり交流することも
とても大事なことですね。

これだけ多動で自分のやりたいことを目一杯やってきたので、若かりし時は特に「他の人と同じように」「一般的な暮らしを」「普通が一番幸せだよ」と散々周囲から言われてきました(ぶっちゃけ面倒でした)。
「一般的」な生き方はできませんでしたが、今の自分に1つの後悔もありません。これだけ楽しく生きられたら、人と同じじゃなくていいかな。
明日寿命がきても悔いがない人生を。

これまでも、これからも
自分を社会にどう活かすか をテーマに
走り抜けます!